【燃えそう】自分の思考整理用の殴り書き

すいません普通のです。

日吉向け履修ガイドはもーちょっとだけ待って下さい。全然進捗ダメでもうダメです。すいません。

 

なんでコロナにこんなに皆怯えてんだろうって思った。

おじいちゃんおばあちゃんならともかく、若い人だったらまーーーー重症化なんて宝くじ並みに低い確率なわけで。しかしなんてアンラッキーな宝くじ。

叩かれそうだけど、「(俺にとっては)風邪みたいなもんじゃん?」とか思ってた。マスク嫌いだから今しんどいし、早くなんとかならんかなーって無限になってる。コロナなんかより余程卒留とかNNTの方が怖いと思うんですけどね。前者はまだ治る見込みがある。後者は一生の問題になりかねない。

 

そして僕は僕なりにひとつの答えを得た。

人々がコロナを怖がる理由。

 

症状を怖がってるんじゃない。いや怖いけど。

それよりも世間から向けられる目を恐れているんだ。

日本の政府は「禁止」っていったわけじゃない(イタリアとかは言ったみたいですが。これくらいハッキリしてる方が逆にわかりやすくて良いと思うんですけどね)。あくまで「自粛」と言ってる。この国で「自粛」は魔の言葉だ。「できればやめてほしいかなぁー?」くらいの意味合いの裏側には恐ろしい程の社会的同調圧力が存在してると思ってる。

そしてそれを破った「出る杭」は容赦なく打たれる。叩かれる。これが常だ。

 

そして、「失いたくないもの」をみんな持ってるんだ。

自分が罹ることで、誰かにうつすことで、失う何かをみんな持ってる。大事なものがある。学歴かもしれないしキャリアかもしれない。カネや財産かもしれない。大切な人かもしれない。

自分を顧みた。失くすものなど何もない。引くほど何もなかった。

別に大切な人もいない(今は)。自分の代わりになりそうな人は、周りを見渡せばちらほら居そうである。自分にしかできないことは、あまりないのかもしれない。誰かが代替者になってくれる。

常々「明日死んでもいいように日々全力で生きる」ようにしてきた。その結果がこれか。

確かに明日死んだって後悔しないと思うけど、後世には何も残せないのか。うん、唯一残るのはこの駄文だけ。

 

話は変わるが、昔「自分は失敗作だ」と親に悪態をついたことがある。泣かれた。当たり前である。自分の発したことが間違ってるとは思わないが、何をどう間違えても両親に向かって言う言葉ではない(かなり精神的に追い詰められてたから言った記憶がある)。

でも何がトチ狂っても「成功作」では決して無い。何が成功したと言うのか。残念ながら不完全な箇所だらけだ。JR車両で言うなら京葉線E331系ってところか。

周りには自分は「普通の人」あるいはもしかすると「スゴイヤツ」に映って見えるのかもしれない。実際の自分はそんな綺麗な定型人間では無い。自信は大して無いし、自己肯定感など欠片もないのである。「いつ死んでもいいように生きる」だなんて所詮「いつ死んだっていいや」って言ってるようなもんである。好き勝手生きて、誰にも悲しまれずに孤独に死んでゆく。

こんな投げやりな考え方しかできない人間がのうのうと生き残っていて、大切なもののために真剣に生きている人間から未知の病に倒れていくのだとしたら、それは不条理極まりないことなのであろう。