Nikon FEを買った。

f:id:shogaitabibito:20210708091307j:image

 

 寸志とは言え初ボーナスが出たのでね。1978年発売のNikonフィルムカメラ(ついでにKodakのカラープラスも)。43年も前である。43年前というと当然僕はまだ前前前世である。両親は小学生で、僕の師匠はちょうど生まれて間もない頃、マイケルジョーダンは高校生。ドイツは東西に分断されていて、現・アイヌ文化振興法は1897年の北海道旧土人保護法とかいう名前のままで、実家の辺りは川鉄の社宅が建っていた。第一次オイルショックからまだ5年、智北線も健在で、今は新幹線の名前になったさくらもはやぶさもみずほもまだ寝台列車だった。空を見上げれば今は無きマクドネル・ダグラスの飛行機がビュンビュン飛んでいて、コンコルドも現役で、平成の大合併前なので日本全国自治体だらけだし、アクアラインなんて無いから車で千葉から横浜に行くには東京湾をぐるっと回らないといけなかった。尾崎豊はまだギリギリ盗んだバイクで夜の帳の中へ走り出す前で、今や赤字を垂れ流しているだけの千葉都市モノレールなんか無くて、僕が2日に1回爆走している石勝線は開通3年前、新幹線は青帯の0系しか走っていなかった頃。

 

 
 なんでこのカメラなんだ、そもそもなんでまたカメラを買うんだというと色々事情があってね。まず手持ちの愛機D750を去年の暮れに電柱にぶつけてしまって、そのせいかオートフォーカス中心にメニュー画面と再生ボタンが反応しないやら露出までもがたまに調子狂ったりとボロボロ状態で、そんな状態で半年も放置していたので、ボーナスも入ったから流石にそろそろ修理しようってわけ。これ以上手元にこのまま置いていたらもっとあちこちが悪くなってしまいそうだった。

 だけれども手元にカメラが無い期間があるのは何か嫌で。だからその修理期間中の「代用品」って言ってしまったら心が痛いのだけれど、とはいえ半年くらいD750で全マニュアルで撮り続けて、これが結構楽しかったので修理が終わって戻ってきた後もデジイチとは別枠で、フィルムカメラとMFレンズで本格的にガチャガチャ機械弄りしながら撮りたいなあと思った。フィルムならではの写り方が良いなあというのも勿論あるのだけれど、全部自力でガチャコンガチャコン弄って撮るという行為そのものに楽しみを見出したかった。

 それからご存知の通りではあるが僕は古いモノが堪らなく好きなので、巷でにわかに流行っているかもしれないオールドレンズを使いたいと思っていて、それも所謂「非Aiレンズ」という相当古い年式のレンズ(1977年以前のものですね)。NikonさんはずっとFマウントという「ほぼ」同一規格のマウントで50年以上やっているのだが、詳しくは各位で調べて頂きたいが、実は途中でこの不変のFマウントも少し機構が変わっていたりする。この非Aiレンズ(主に「ニッコールオート」とか「ニューニッコール」とかいう名前のやつですね)とやらは現行のデジイチは勿論、フィルムカメラでも1980年代以降のやつは詳しくは述べないけれど機構の変更的なアレで装着出来ないものが多くて、ギリギリ装着出来るのがFEだったって訳だ。候補機としてはFE、FM、F2、F3あたりだったが、電子シャッター式のFEは機械式のFMなんかと比べると不遇な扱いをされているみたいで、お値段的にも優しめ。あとデカすぎず洗練されたデザインが好き。状態も良かったのでFEにした。ボディカラーは悩んだけど、黒。銀ボディはDfにでも取って置く事にした。

 

 
 さて長々と話をしているが、デジタルカメラは誠に便利な代物だ。現代っ子で良かったですね。バッテリーとメモリーカードの容量が許す限りいくらだって撮れるし、撮った成果物をすぐに液晶モニターで確認できるし、気に入らなければその場で消してしまえばいい。

 ただ、その所為でなんというか、シャッターを乱射してしまう癖が付いてしまった気がする。僕自身巧さだけを求めてる訳ではないのだけれど、良い構図になるかは解らないがどうせ気に入らなければ後で消しちまえばいい。納得いく一枚が撮れるまで幾らでもシャッターを切り続けちまえばいい。何ならLightroom通せば結構無理な修正だって利く。極論そういう事である。でも「本当にこれでいいのかな?」という葛藤はずっとあった。否、このままではダメなんだろうなとさえ思っていた。このところの僕のデジタルでの撮影行為は悪く言えば「現実逃避」だったのかもしれない。思い通りに行かなかったものは何だって消去してしまえるから。まあ故障でメニュー画面開けないから直ぐには消せないんだけど、パソコンに入れちゃえば消せるし、実際消してるし。

 その点、これから手を出す身なのでこの解釈は間違っているのかもしれないけれど、そういう意味ではフィルムはデジタルと対極にある存在なんじゃないかな、という気がする。写真屋に持って行って現像するまで成果物がどうだか解らない。もしかしたら露出オーバーの真っ白な写真だらけかもしれない。フィルム1本でせいぜい36枚分しかない制約の中で撮る。ISO感度だってフィルムごとに固定だ。おまけにすぐ手に入るやつは精々400しかない。シャッタースピードの最速もD750の1/4くらいしかない。FEはシャッター用の電池が切れても一応機械式シャッターが使えるが、1/90秒固定になってしまう。

 そう考えたらなんだかフィルムカメラって人生みたいだと思う。自由なように見えて実は制約が色んな処にあって、思い通りに行かない事が殆どだ。人生に記憶消去ボタンなんて無い。楽しい事も悲しい事も苦しい事も纏めて抱えていくしかないんだ。僕は多分人より記憶力が良い方だから尚更。それに楽しい事だって、ふとしたきっかけで全部辛い記憶に昇華してしまったりするよね。フィルムが現像された時、撮り手は消しようがない現実を突きつけられる。「これがお前の撮った写真だから黙って持って帰って受け入れろ」的な。だからこそ一枚一枚想いを込めて、思慮を重ねて大事に撮るようになるのかな、と思う。

 

 
 「フィルムカメラで撮るという経験」は、恐らく僕にとって微かな希望たりうるものだ。慣れない仕事と孤独で心身共に疲弊し、単調に過ぎ去っていく退屈な日々に何か変化をもたらしてくれるんじゃないか?という縋りみたいなものでもあるのかもしれない。今の日々は文字通り釧路の夏、霧で100m先さえ見えずにどんよりとしたモノクロの曇り空が延々続くイメージそのものだという感じもする。「生きてる理由なんてない だけど死にたくもない こうして今日をやり過ごしてる」って昔Mr.Childrenが言っていたが、正にそんなような生き方をしている。

 一応これでもやりたい(というか幼い頃からの憧れだった)仕事をやらせてもらっていて、仕事自体は滅茶苦茶楽しくて天職だなぁとは思っているんだが、でも何故僕が今何の為に働いているのか良く解らない。何の為に働いているのか、何の為に生きているのか、もっと歳食ったらもっと解らなくなるだろう。そしてもっと深く絶望する事になるだろう。何か生きる為の、生命活動を営む為のモチベーションが欲しいのかも知れない。でもそれをヒトに求めるのは人望も魅力も才能も何一つ無い僕には無理だしもう半ば諦めてしまったから、モノに求めるしかないのかもね。

 何言ってんだか解らなくなってきたけど、そしたら「何かが変わるんじゃないか」という微かな期待。いつもこんな感じで他力本願だけどこの癖はもう治らないね。ただの孤独の一時的な慰めにしかならないのかもしれないけど、まあ最悪それでもいいや。ひたすら一人で酒を飲んで泥酔して布団に倒れ込んで全部忘れようとするよりは余程生産的な活動になるだろ。これも全部酔っ払いの戯言なんだけどね。

 最後に、貴方の貴重な時間を僕の駄文で奪ってしまっておいてこれを言うのは申し訳ないのだけれど、これだけダラダラと書いたのを全て読んだ貴方は余程の物好きで無い限り相当な暇人でしかないと思うので早く寝て下さい。